正保御国絵図(しょうほおくにえず)
歴史上、北方領土が登場したのはいつごろから?
 日本が北方の島々のことを知ったのは、17世紀(江戸時代)のはじめ頃のことです。これは松前藩の「新羅(しんら)の記録」で明らかになっています。
 現存する地図のうち北方領土が表されたもっとも古いものは、1644年(正保(しょうほ)元年)に幕府が作成した「正保御国絵図(しょうほおくにえず)」です。この中に既に「くなしり」「えとろほ」などの島々の名前が書かれています。

大日本恵登呂府
(だいにっぽんえとろふ)
そのころ、北方領土でどんなことをなされていたのかな?
 江戸時代、幕府は1785年(天明(てんめい)5年)から、最上徳内(もがみとくない)を国後島と択捉島に派遣し、現地の様子をくわしく調べさせました。また、1798年(寛政(かんせい)10年)には、大規模な調査隊を派遣し、このとき近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)が最上徳内とともに択捉島に渡り、「大日本恵登呂府(だいにっぽんえとろふ)」と書いた標柱を建てました。
 さらに1799年(寛政11年)には高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)が、苦心の末、国後・択捉島間に航路を開きました。

人々の生活はどうだったの?
 主な産業は、北方領土のまわりの海が寒流と暖流がまじわって、魚や貝などがたくさんとれるため、江戸時代松前藩のころから、漁業が盛んに行われていました。
 また、林業も重要な産業で、島のほとんどが森林でおおわれているので、良質の木材を生産していました。
 このように、人々の生活は比較的豊かでしたが、毎日の生活に必要な食べ物や用具などが船で運ばれているため、値段が高かったり、急病人やけが人がでたとき、船で根室や函館まで運んだりしたなど、苦しいことや不便を感じることもありました。