1875年(明治8年)、日本はロシアと「樺太千島交換条約」を結び、千島列島をロシアから譲り受けるかわりに、樺太全島を放棄しました。また、この条約には、譲り受ける千島列島としてシュムシュ島からウルップ島までの18の島の名前をあげています。このことは、逆説的に、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島が、千島列島に入らないことを示しています。
1905年(明治38年)、日本とロシアは「ポーツマス条約」を結び、南樺太が日本領となりました。
第2次世界大戦後の1951年(昭和26年)「サン・フランシスコ平和条約」が結ばれ、日本は千島列島・南樺太を放棄しましたが、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の四島はその中に含まれていません。この条約の署名をソ連が拒否したために、日本はソ連との間で個別に平和条約を結ぼうとして、交渉を始めました。そして、1956年(昭和31年)、「日ソ共同宣言」が署名され、領土問題を含む平和条約の締結交渉が継続されることになり、まず国交の回復が図られました。
その後、ソ連との間で交渉が続けられてきましたが、長い間進展しませんでした。
ソ連が崩壊し新生ロシアになってからの1993年(平成5年)、「東京宣言」が署名され領土問題は、「法と正義」によって解決されることになり、粘り強い交渉が続けられています。
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